8月8日の午後からは「ナガサキ」を巡る。
今回の旅の最大の目的である。
しかし、本当に暑い。
そして坂道、坂道・・・。
まず向かったところは山王神社の一本柱鳥居。

山王神社の二の鳥居だった一本柱鳥居
一の鳥居と共に爆風に並行に立っていたため残っています。
二の鳥居である一本柱鳥居は左半分が爆風に飛ばされ、右半分が奇跡的に立って残っています

天を見据えるように立つ一本柱鳥居
広島では原爆ドームが奇跡的に残り、長崎では一本柱鳥居が奇跡的に半分残り
無言であの日のことを伝えます。

一本柱鳥居の吹き飛ばされた半分
整然と並べてありますが、固い石で出来たこの鳥居がここまでなるほどの爆風だった事を
物語ります
山王神社へ歩みを進めると大きな被爆クスノキが大きな木陰で神社一体を包んでいました。
大きなクスノキだったことと、クスノキという木の特性から耐え残ったと言われています。
クスノキの下にヒバクシャの方が座っておられました。
「どこからいらっしゃった?」と優しく話しかけてくださった。
広島からです、と答えると深くうなずいて広島の宇品港を訪れたことがあるよとおっしゃった、
「宇品港の近くにあるあの山はなんて名前だったかなー、そうそう、比治山。
まさか、あの広島と長崎があんなことになるなんてね・・・」
と戦時中の広島について語られました。
”広島ではその比治山が楯になり、爆風を逃れた地区が古い町並みを残していたんですが、
その地区も再開発で無くなりつつあります、”と話すとその後、ご自分の被爆体験を
話し始めてくださいました。
自分も、楯になるものがあったから助かったんです。
友達はね、ひどい姿で死んでいった。
私らはね、自分の友達を葬らないといけなかったんですよ。
私らの手で、自分の友達を焼かなきゃいけなかった・・・。

「来年もいらっしゃい、またお会いできたらいいね」
と、昨日中華街で会ったおばちゃんと同じ事をおっしゃってくれました。
怒りや恐怖心や悲しみ全てを腹の底に押しとどめて優しい口調でゆっくり語られる。
一番忘れたい事を思い出しながら話しすることはどれほどに辛いだろう。
写真を撮らせていただき、山王神社を後にする。 また会いたい。
爆心地に徐々に近づくように坂道を歩く。
「暑いねー、坂道ばっかりだねー、水ちゃんとある?」って姪っ子と言いながら歩く。
あの日、この急な坂道を傷ついた体で逃げるのはどれほど辛かっただろう。
坂を下り、上り、原爆資料館へ到着。

広島の原爆資料館に行ってもそうですが、ここも言葉を失います。
負傷した弟を背負う兄、
もはや吸う力もないわが子に乳を含ませる傷ついた母の目、
我が子へ自分の無事と家族の死を伝える立て看板、
自らの経験を語る映像・絵
一人でも多くの人に訪れて欲しい。
原爆資料館と併設となっている追悼祈念館にも行き、

次に浦上天主堂、
そして平和公園へと行く。
平和公園のすぐ下を流れる浦上川

翌日の式典に備えて準備が着々と進む。

驚いたのは式典会場に入る場所にセキュリティゲートがあったこと!
広島の式典会場にはないのでマジでビックリ。
(翌日、ゲートで止められる人と止められない人の差がよく分からなかったな。
もしかしたら入場制限かけるための手段だったのかなー)

爆心地で祈りを捧げるアンゴラ大使
式典前夜、平和公園の入口階段ではピースキャンドルのセレモニーが行われていました。

子供たちが平和な世の中を願って灯した小さな明かりの集まり。
これを戦火に変えてはいけないのだ。
翌日。
8月9日 長崎原爆の日
遠くで鳴る教会の鐘の音で起きる。
朝から霧雨。
前日までの焼けるような暑さはないけれど、音も無く包むように降る。
前夜、子供たちが祈りのキャンドルを灯していた公園入口階段を上り、式典会場に入る。
世界の皆さん、不信と脅威に満ちた「核兵器のある世界」か、
信頼と協力にもとづく「核兵器のない世界」か、
それを選ぶのは私たちです。
私たちには、子供たちのために、核兵器に脅かされることのない未来を
つくりだしていく責任があります。
一人ひとりは弱い小さな存在であっても、手をとりあうことにより、
政府を動かし、新しい歴史をつくる力になります。
2010年 長崎平和宣言とても心を動かされる平和宣言でした
列車の時間もあり式典終了直前に会場を後にしましたが、今回長崎を
訪れて本当に良かった。
そして当初一人の予定でしたが、姪っ子と来てよかった。
何を感じ、何を思ったのか、少しずつこれからも話していけたらいいし
この先何かに生かせる体験がこの旅の中に一つでもあったらいいと思う。
これは姪っ子だけの事じゃなくて、私も同じ。
とてもいい出会いがたくさんあったし、その一つ一つを大切にしていく事こそ
”手をとりあうこと”ではないかと思う。
いやー長くなりましたー! 読んでくださった方、ありがとーございます。
うまく表現できませんでしたが、何かを感じていただけたら幸いです。
本当はまだ語れること(ネタ)があるので、追ってアップしていこうと思ってます
(さすがに今回だけは真面目に記事を〆ますね☆)
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- 2010/08/16(月) 22:56:48|
- 管理人の悪行三昧
-
| トラックバック:0
-
| コメント:3
高校の時に修学旅行で広島に行って、被爆者の方のお話を聞きました。
それはもちろん、印象深く、忘れてはならない体験だったのだけれど、
舞台に立たれた被爆者の方は、実はちょっと遠い、特別な人だった。
だから、もかママさんが長崎でこんなふうに被爆者の方と会ったということに、今、衝撃を受けてます。
そうなんだよね、普通の人たちが被爆したんだよね…
そこをちょっと、体感できていませんでした。
広島や長崎で生まれ育った人たちは、もっと生で、被爆者の声を聞いているんですよね。
でも、そこで生まれなかったことを、知らないイイワケにしちゃいけないね。
一人旅の予定が、ステキな二人旅になってよかった。
姪っ子ちゃんにも、素晴らしい体験になったことでしょう。
お着物も、可愛かったしね~~。
あれは若くないと着れないね~~!
- 2010/08/17(火) 15:02:59 |
- URL |
- 小沢 #-
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そうでしたね、小沢さんは修学旅行で広島に来られたんだったですよね^^
(いわくつきの「もみじまんじゅう」の箱を大事にしていたエピソードに激ウケ)
そーなんよ、普通の人が犠牲になったんよね。
日本人だけじゃない、たくさんの在日朝鮮人、中国人をはじめアジア各国の人々、中には
捕虜だったアメリカ人等も含まれます。
犬っころも、猫っこも馬も草木もみーんな犠牲になった。
それは原爆に限った話ではなく、戦争の犠牲者はいつも丸腰の一般市民。
争って殺し合いして生まれるものは憎悪や恐怖の負の連鎖なのにね。
核兵器も、どんな兵器も作ったらいけん。 あったら戦うけーね。
ホント、素敵な2人旅になりました。
着物、可愛いじゃろー(´∀`)
若いし色が白いので似合う色です。 この日私は紫の着物を羽織らせてもらったんですが
やっぱいいね、紫は。
先日紫の単衣を買うたので来月辺り、この紫で「夢二っこ」よろしくでお出かけしたい
ものです。
- 2010/08/18(水) 10:20:42 |
- URL |
- もかママ #-
- [ 編集]
姪っ子さんと素敵な旅が出来て良かったですね
うちは姪が一番末っこなので一緒に旅が出来るのはいつの事やら
でもきっと和とか日本の歴史とかには興味ないと思います。
先日、日本が世界25都市へ平和の祈りを込めて贈った鐘の1つが
リラ公園から盗まれました

王国の鐘より先に盗まれたペルーへ贈った分は
無事に戻ったそうですが…
2つの盗難ともラテンアメリカか…とため息が出ちゃいました

- 2010/08/21(土) 04:01:47 |
- URL |
- まだ雪だるま #8SJW7PZ6
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